ふじうら旅日記
3日目
その3
このへんは「坂下」という地名らしい。山の裾野がすぐ海岸になっている 地形で、坂の下にあるから坂下というのだろう。すぐ上を立派な自動車道路が 走っている。山あいにかけられた橋のような道路だ。その橋のあるあたりは 「逢坂」という名前だ。坂下の村と山の村の人が逢う坂だという。なかなか風情 のある地名なんだ。
海までの道は二つあるが、緑の中の道を行ってみることにした。緑はほんとうに 濃い。御蔵島でまだつぼみだったアジサイもここではもう満開だ。温度 もかなり違うようだ。野生の百合があふれるばかりの勢いで咲いている。 ストレチアの花、ブーゲンビリアの花、フェニックスの樹。驚くほど近い茂 みで鳥が鳴いている。私は鳥の声は見分けがつかないが、ウグイスがいろんな声 で鳴いているようだ。
目の前が開けて、海が見えてきた。真ん前に八丈小島がある。大きな丸い石が並 んでいる。先ほど見た玉石垣の石に似ているが、そればかりでなく多種多様な石 があった。溶岩が固まったような石も多い。岩浜である。水は澄んでいて、波の 底がエメラルドグリーンに見える。
海岸には小さな砂浜や、シャワー設備や、バーベキュー用のカマドまである。浜 には見渡す限り私達四人しかいない。いい気分だ。
浜辺気分を堪能して、さあ出発。クロサカさんの愛犬ビッキーが「自分も連 れていけ」と吠えている。「犬にはいい環境ですね」「ええ、でも東京 にいたときは繋いでいなかったのです」。ビッキーは大きめの黒犬なので、お客 さんの中には怖がる人もいるようだ。見かけるたびに相手をしてやったので、 滞在中にすり寄るようになってきた。人なつこい性格なのである。
逢坂からの眺めは八丈名物のひとつだとクルマを停めて展望させていただく。 八丈小島に夕陽が落ちて絶景になるらしいが「今日は天気が悪くて水平線も見 えませんね」。大きなトンネルをくぐって樫立の部落に入る。
目指す八丈料理店「いそざきえん」は樫立にあった。一見普通の民家 のようだが、入ると三間続きの広間があって、長押には数多くの色紙が 飾ってある。芸能人も多いが、昔の文人墨客、信濃善光寺住職の書 などもあって、この店が由緒ある料理店だということを示していた。
仲居さんはニコニコしたおばさんで、由緒ある店のせいかちょっと上品な感 じがする。基本コースを人数分と、あとオプションで伊勢海老を一匹奢 ることにした。「伊勢海老はどうしますか」「刺身にしてください」。 とりあえずビールを飲んでいると「どちらにしますか」と仲居さんが伊勢海老を 二匹持ってきた。「こっちが8000円でこっちが9500円です」
9500円のほうが少しだけ大きい。どっちにしようと見る間もなく、950 0円がばちっと跳ねて食卓の下に飛び込んできた。「ありゃりゃ」。
ヲサム君がテーブルの下でバタバタしている伊勢海老をつかまえた。
「じゃ、こっち」
ジャカルタのレストランで
見たような図
である。
コースの料理が運ばれてきた。どれも鄙(ひな)びた感じでとても美味しく、 身体に良さそうなものが多い。アシタバ入りのこんにゃく。海藻類もとても元気 そうだ。「きんぽ」という干薩摩芋のきんとんに小豆を炊き込んだものが、 あっさりとした甘味で、酒飲みの好みに案外合う。「なにを食べても旨 いねえ」。そこへ待望の伊勢海老が運ばれてきた。金目鯛、メダイとの盛り合 わせだ。「うめえ〜!」まだ動いている伊勢海老の刺身を堪能する。
「この季節だけのもんだけど」と仲居さんが細い竹の子を何本も運んできた。焼 いて、皮を剥いて味噌をつけて食べるのだという。「竹というより笹 だけどねえ」。これがまた旨い。根本のほうでも指くらいの太さで野趣 あふれる香りだ。
ビール瓶が空になったので島酒を試す。初めてなので「お湯割りで」と頼 んだのだが、一口飲んで「これ、割るのはもったいないよ」とそのままいく。 ちょっといい気分になってきた。仕上げに麦雑炊を食べる。大粒の麦の 味噌仕立て。どれも珍しく、どれも美味しい。
バスの時刻に遅れたので、お店の人がクルマでバスを追いかけてくれた。
あったかいものを感じるなァ。
さてそろそろ、と台所へ行って清算。これだけ楽しんでひとり4500円だ。 「バスの時間を教えてください」「どこ行き?」「見晴しの湯です」「末吉ね。 えーと12時37分ね」「いまは?」「12時40分」。あちゃー、乗り遅れたか。次の バスは3時だという。
座敷に戻って、じゃあいったん宿に帰ろうかと相談しかけたら、台所にいたもう 一人の女性が「クルマに乗って乗って」と呼びかける。え?バスを追い掛 けてくれる?みんな急いで店を出てクルマに乗り込む。
「ありがとうございます、由緒ありそうなお店ですねえ」 「もともとはこのへんの村長みたいな家でね、人が集まって宴会が多 いからこういう仕事をはじめたの」。3つほど先のバス停までクルマを走 らせると「あ、いたいた」。クラクションを鳴らしてバスに合図してくれた。 いそざきえんの皆さん、ほんとにありがとうございます。
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