言わせてもらえば
汎情報社会とは。

去年(2006年)は、あちこちで「ウェブ 2.0」、「WEB 2.0」という声を聞く年であった。WEB 2.0の本当の意味は、まだまだ今年になっても現れてくるだろうが、なんでもひとつの呪文で済ますわけにもいかない。

まとめていえば、情報の「獲得特権の喪失」「発信特権の喪失」ということであろうか。もちろんある人ある階級にとっての喪失は他者にとっては「獲得」であったりもするわけだが。

情報を得たり発したり、それをもとにつるんだりするのに、高額の資金や権限が必要な時代は終わりを告げた。というのが、大方の理解である。情報はどこにでもあり、誰にでも手に入る、というのが前提だ。

まあ、大体のところはそういっていいだろう。いまだに「特権情報」というものは存在しているだろうが、ひところに比べれば質量ともに「無い」にひとしいくらい縮小していると考えてもいいと思う。

すると「情報はみんなのものだ」ということになる。では「勝つ機会も平等にみんなにある」のか。

ゲームの理論に「完全情報ゲーム」という概念がある。ちょっと難しく定義すると「参加するプレイヤー全員が、そこで行われるゲームについて等しく同じ情報を得られる」というゲームだ。というとわかりにくいかもしれないが、「裏になったカードのないゲーム」「あるプレイヤーは見ることができるが、他のプレイヤーは見ることのできない要素がないゲーム」のこと。つまり、囲碁とか将棋とか、すべてがオープンになったゲームをいう。

完全情報ゲームだからといって、単純とか、必勝法がすぐ見つかる、わけではない。現に囲碁ではいまだに必勝法が見つからず、コンピュータプログラムもアマチュアの中級者程度の強さしか持っていない。

以前の社会は、一部の人だけが情報特権を占有していた。「不完全情報ゲーム」の世界であった。例えば、麻雀とかトランプとか、裏に伏せたカードがある世界であった。そこでは、「自分だけ知ることのできる情報」というものの価値は非常に大きかった。しかしいまでは「情報は公開されるもの。占有できないもの」というのが建前である。インサイダー取引についても、ずいぶんと厳しくなった。現代では「情報の占有による特権的利益」を享受することはかなり難しくなったのである。

完全情報ゲームである囲碁や将棋にも、上手い下手があり、それで飯を食うプロがいる。ある意味では、不完全な情報によって成り立つギャンブルよりも、鍛えられた技が間違いなく通用する世界である。あまねく人が情報を得られる汎情報社会とは、「技を磨くに値する社会」ということができる。

権力で情報を独占することができない。その分、権力は武器を失ったわけだ。個人が技を磨くことで、勝つことができる。なかなかやりがいのある社会になった、という気がしませんか。



(2007年01月08日)







c 1999 Keiichiro Fujiura

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