言わせてもらえば
ケイハクが輝いていた頃。

漣健児さんが亡くなった。

「とても重要な仕事をされた方が一生を終えられた」と思う。その偉業を一口で言えば「日本のポップス詞の原型を創った人」ということができるだろう。最も知られている作品で、かつ彼のスタイルをよく現しているのが「ルイジアナ・ママ」だ。

♪ビックリギョウテン有頂天
コロリといかれたよ

♪恋の手管にかけたなら
誰にも負けない僕だもの
アタリキシャリキ


こういう歌詞を英語の曲に初めてつけたのが漣健児である。歌詞はサウンドであるという感覚、「にほんごであそぼ」というか古い言葉をカタカナにして遊んでしまう感覚、橋本淳も阿久悠も松本隆も売野雅勇も馬飼野康二も森雪之丞も松任谷由美も桑田佳祐もスガシカオも、およそ日本でポップス詞を書くひとはみんな有形無形の影響を受けざるをえない、源流的存在であった。

当時はホントに日本ポップスの黎明期で、漣さんたちのやられたことは言ってみれば杉田玄白解体新書みたいなもんで、手探りだったんだろうと思う。

例えば、いまうちのバンド、アスタ・ドミンゴもやっているラテンの名曲「Moliendo Cafe」これを西田佐知子が歌った「コーヒー・ルンバ」に訳した作詞家は中沢清二だが、歌詞の内容はまるで原詞と違う。たぶん曲名にインスパイアされて(曲名だけを頼りに)できた歌詞で、これは訳詞も翻案でもなくまったく別の歌詞を作詞したに等しい。

もっとすごいのに「ムスターファ」というのがあったなァ。もともとトルコ語の歌詞なんだけど「どうせトルコ語なんて誰もわかるわけないから」と青島幸夫が(もちろん自分もわからない)テキトーな歌詞を付けた。

♪遠い昔のトルコの話
哀しい恋の物語
純情可憐な優しい男
それが主人公ムスターファ


ムスターファは貧しい男で、美しい奴隷娘に恋したけれど金がない。それで一念発起してマネービルをはじめ、金持ちになったときはすでに哀しき60歳になってしまった、というイイカゲンな歌詞で、日本題では「かなしき60歳」として発売されたのだから、これは原作者が見たら知的人格権の侵害といってもいいようなムチャクチャな「翻訳」だった。

ところが、である。ときは進んで1969年、手塚治虫が大作アニメ「千夜一夜物語」を作った。そのプロットは、貧しいアラジンは奴隷娘と恋に落ちるが、娘は死んでしまう。冒険の末、金持ちになったアラジンはその娘そっくりの少女に出会い(実はほんとうの母娘)、金の力で手元に置くが、老齢のために愛を得られない。というもの。「かなしき60歳」に似てるでしょ?

アラジンの声を担当したのは青島幸夫。こうなると、瓢箪から駒というか嘘から出た真実というか、現実のほうがフィクションを追いかける感じになる。

まあ、青島さんが都知事になったこと自体、なんかそういう感じですものね。バック・トゥ・ザ・フューチャーじゃないが、青島都制時代にタイムマシンが発明されて昭和30年代に行ったとして「お前は未来から来たというが、じゃあ東京都知事は誰だ」「青島幸夫」「青島だァ?じゃあ総理大臣は植木等か」と笑いとばされても不思議はない。

ここいらのポップス作詞に共通するものは、ケイハクさの魅力である。ポップス、というのはもちろん「ポピュラー」の短形だが、同時にはじけるような、泡のような軽さをもっている。当時の若者はよく「イカす」と言ったが、それは古く重いもの(カッコワルイ)ではなく、新しく軽いもの(カッコイイ)ものと感じたときに使っていた。泡ほど軽くて薄いものはない。「ケイハク=ポップな感じ」がとても新鮮だったんだ。

軽薄、という言葉が最後に使われたのは重厚長大産業の終焉と言われた昭和の末期。この頃椎名誠らの文体が「昭和軽薄体」ともてはやされたが、平成になってからは「軽薄」という言葉はほとんど使われなくなった。っていうか、どこを見てもみんな軽薄なんだものね。


(2005年07月05日)
漣健児さんの命日は2005年06月06日です。




HitParade 1960-63


c 1999 Keiichiro Fujiura

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