ふじうら旅日記

2日目 その5






思いがけなく楽しかった御蔵島の一日も終りに近づいた。
明日は早起きである。

私たちも最初は遠慮していたのだが、クリモトさんもだんだん打ち解 けてきたようでいろんな話をしてくれる。「弟が熱海でガソリンスタンド をしていてな。よくそこに舟で行ったよ」。葬式があったから一人 ではいやだとか、蛇は苦手だ、とかいいながら、小舟に乗って一人で熱海まで行 くのである。そのほうがよっぽど恐くないんですか。

「海の見えないところには住めないから。東京に行くときも竹芝の海側の部屋 を取るんだ」。かっこいーなー。うーん。クリモトさんは精神的に男前 なのであった。年齢は「今日死んだ男(47歳)の父親と同級だからな。驚 くほど年とってるよ」。70代という意味なんだろうが、見るところ60歳 といって不思議はない矍鑠(かくしゃく)颯爽(さっそう)とした佇まいだ。

「恥ずかしい話だがね」「はい」「大きなカジキを釣って、取り込 もうとしたら、自分を結わい忘れていて海に落ちた」「危ないですね」「急 いで舟にあがって釣り上げた」「すごい」「カジキが大きすぎて舟に上 げられなかった」「どうしました」「縛り付けて帰った」「鮫は来 ませんか」「来るけどあまり血を出さないようにしたし、舟の速力が速いから」

まるっきり「老人と海」の世界である。ヘミングウェイの小説の主人公から 直接話を聞いているような気分だった。

「あの駐在さんはいいよ」とクリモトさんは喜んでいた。駐在さんには小学校に 通っている子供たちがいて、それで地元に溶け込むのも早いし、若者があまり多 くない島だから船が港に着くときにはロープを曳くなどの力仕事も手伝う。 いわゆる警察の仕事だけではすまないのである。「大切な仕事だからな、誇りを 持ってやってくれ、と言っているんだ」。クリモトさんはこの島の社会では 重要な存在なのだろう。息子よりも若い駐在さんに期待もし評価もしている様子 が伝わってきた。

もっと話していたかったのだが、御蔵荘に着いたのでお礼を言って別 れることになった。「今日は話しながら行けてよかったよ」と言ってくれた。お 世話になったのはこちらなのに、ほんとにありがたい。

夕方になって、雨が強くなってきた。この日のニュースは柳家小さんが亡 くなったことだった。夕食の膳にアシタバの天婦羅が出たので、みんな「アザミ でないとね」などと今日仕入れたばかりの知識をふりまわしながら楽しく食 べる。

部屋で少し酒を飲んでいたら日頃の疲れからかヲサム君が寝てしまった。それを シオにお開きにした。明日も5時過ぎに船が来ることだし、今日は早寝 することにしよう。

と思ったのだがやはり普段の習慣ですぐには寝付けない。11時ころ宿の外に出 てみたら町は真っ暗だった。小雨のなか点々と明るいのは街路灯ばかり。この島 の人たちは早朝の船に合わせて生活しているから、すこぶる早寝早起 きなのである。





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