言わせてもらえば
柳朝を忘れちゃいませんかってんだ。

暮れの「談志独演会」に行った。

演目が芝浜なので、日本酒を飲みたくなって近くの居酒屋に入る。談志はもともとこの話を得意にしていたが、老境に入ってまた良くなったようだ。あの女房は若い頃はしっかりものに描かれていたが、すっかり可愛い女になっている。

本人もよく話題にする「お、雪か?」「お飾りの笹の葉が触れ合ってそういう音がするの」というくだりは今日も使っていたが、なぜ使うのだろう。自分で「そんなに文学的にする必要はない」といいながら。「寒いなあ。風呂から帰るとき空を見たら降るような星だった。明日は晴れだぜ」という言葉を引き出すために必要だというが、ほんとにそうだろうか。それにしても噺の中でこの日は大晦日(旧暦)だから、月のない江戸の夜空で星は満天に輝いていたに違いない。

などと考えていると、隣のグループが大声で落語の話をしている。同じ会の帰りだろう。わりあい若い男女5人。それは微笑ましいのだが、なにやら変なことを言う。

「談志、志ん朝、円楽、円蔵を、四天王といったんだよ。」

なにを言っているんだ、こいつらは。四天王は円蔵(当時の円鏡)じゃない。そこに入るのは柳朝。春風亭柳朝じゃないか。誰か忘れちゃいませんかってんだ。ホール落語の独演会にグループで来るくらいの落語ファンにして柳朝がすっかり失念されていることを、あらためて思い知らされた。

春風亭柳朝は林家正蔵の一番弟子で小朝の師匠である。芸風は威勢がよくってお調子者、短気で見栄っ張りという生粋の江戸っ子。この人の場合は「地でしゃべってる」という印象が強くて、聞いているほうは「こいつ本気でそう思ってるんだろうな」と感じることができた。

名人はあまたいるが、そういうふうに感じさせてくれる人は少ない。落語が過去のものになっていくなかで、登場人物と落語家本人が溶け込むような芸を見せてくれたのは、まず志ん生、それからこの柳朝だった。

声がバリトンである。声の高い落語家が多いなかで、この人は比較的中域の張りのある声であった。「陽気な小父さんの声」である。調子はいいが、お兄さんの声ではない。現在の落語家のなかでいえば鈴々舎馬風の声と同じ系統だが、馬風の声ほど蛮声ではない。バリバリ鳴るけれど荒れた感じはしない声であった。

「あった」と書いているのは、もう亡くなったからである。こんなに早く忘れられてしまうとは思わなかった。生きていればいま60代後半くらいか。戦後の第一世代だから、談志より少し年上だ。

談志ファンが柳朝を忘れてならない理由がひとつある。柳朝は談志をいじめぬいた先輩なのだ。談志が演じているとき高座の後ろを通りぬけたとか、柳朝が談志にしかけた意地悪が語り継がれている。

談志の部屋に柳朝の写真が貼ってあったという話もある。「なんでです?」と聞いた人に「この野郎!と思うと稽古のはげみになる」と談志が答えたという。宿敵といってもよい存在なのだ。

柳朝が忘れられたのは、このあたりに陰険なものを感じられたからなのだろうか?噺を聞いている限り柳朝に陰湿なものは少しも感じられない。才能ある生意気な後輩に対してのあせりやいらだちはあっただろうし、目下にとってわがままで扱いにくい人だったろうが、「内にこもって発酵していく邪悪な思い」などという重たいものは感じにくい。

例えばガキ大将が成績のいい子をいじめるような、嫉妬と悪戯の混じったものだったのだと思う。いじめられるほうは深刻だが、いじめるほうは単にそのときの自分の収まらない気持ちをぶつけていただけのように、少なくとも私には感じられるのだ。

柳朝の得意としていた噺は「大工調べ」「佃祭り」、啖呵の切れの良さをよく誉められた噺家だが、妙なところに魅力が見つかることもある。例えば「付き馬」。馬を連れて帰る翌朝、一緒に朝飯を食うのだが、馬が肉豆腐を頼むと露骨に嫌な顔をする。「朝からよくそんなしつこいもンが食べられるね」。口には出さないが(野暮だね)と言っているのがよくわかる。そして自分はただの湯豆腐とお銚子を誂える。このへんの「ほどの良さ」に対するこだわりに、むしろ江戸っ子の美学を感じたものだ。

偉い人間でもないし、どちらかといえば善良な人間でもない。でも、自分の柄とプライドを持っているし、情もある。江戸という都会ですこーし枠をはみ出しながらもなんとか生きている連中の噺に、よく似合う語り手であった。



(1999年12月22日)





c 1999 Keiichiro Fujiura

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