言わせてもらえば |
三木のり平のうんこ。 |
落語に関してだけは、東京生まれの人にはかなわないと思う。ことに色川武大のように学校をさぼって寄席に通っていたというような人は尊敬してしまう。なにしろ私の故郷は熊本なので、いくら学校をさぼっても寄席などはないのである。子供のときの鍛えかたが違うというやつで、はじめから勝負にならない。私は日本のジャズファンのようなものだ。ライブなしで、レコードだけでできあがったファンなのである。 三木のり平の自伝を読むと、彼にとっていちばん大事だったのは舞台で、「映画なんてうんこみたいなもんだ。自分の出したうんこをもう一度見たくない」というような発言がある。 ひとつには「シーンごとにばらばらに演技しろったってできないよ。最後につなぐのは監督なんだから、映画は監督のものさ」ということもあるだろうが、それ以上にのり平にとっては「いまここで演じていること」というのが重要だったのだろう。つまりはライブの人だったのだと思う。 レコードビジネスはどうしても複製を売った枚数が勝負になるので、「CD100万枚」とかいう数字が一人歩きする。ミュージシャンも「録音」となると普段のライブより真剣になる。しかし「ほんとに大事なのは止った時間なのかい?」という視線が、三木のり平の言葉のなかにある。役者や演奏家にとっていちばん大事なのは、この流れている時間、客と共有する時間であって、それは生きている。録音された時間はすでに終わった時間だ、という感覚も一方で大切だと思う。 まあ、ということは私は落語家のうんこばっかり聞いていたってことなんですがね。 今回は喩えが汚くてすみません。 他の言葉ではなかなかこの三木のり平の言ってることが伝えにくい気がしたもんですから。 (1999年12月06日) |
c 1999 Keiichiro Fujiura |
表紙 |
黄年の主張 |
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