角筈

滝田ゆうがタクシーの運転手に「角筈」と言うと「西新宿ね」と確認されて嫌な顔をする、という龍角散のCFは、あれはいつの頃だったろう。

たしか70年代の末か、あるいは80年に入っていたか。すでに西新宿には高層ビルが何本も建っていた。当時龍角散が単独スポンサーだった「笑点」でそのCMを見たときは「東京の人にしかわからない広告を作って、、」と思ったものだ。

最近浅田次郎の小説「角筈にて」がベストセラーとなりテレビ化もされたので「角筈」という地名も再び注目されるものとなった。

住所表記から「角筈」の名はなくなってしまったが、「角筈二丁目」バス停留所は現存する。甲州街道沿い、CITIBANKの近く「江戸そば」の前に、手書きの墨文字で書かれた昔風の丸いバス停の標識が立っている。

角筈とは西新宿の一角、<山手線/甲州街道/山手通り/都庁に囲まれたエリア>を指すと考えている人も多いだろうが、昔の「角筈」はもっと広い地域を意味していたようだ。昔の葉書宛名に「東京府下豊玉郡内藤新宿字角筈」というようなものがある。この住所表記の頃は角筈は内藤新宿の一部となっている。

モノの本によれば明治時代には歌舞伎町までを含む広い地域が「大字角筈」と呼ばれ、昭和の初め淀橋区が生まれたとき、それが「角筈/淀橋/十二社」に別れたという。70年代は西新宿の大変革期で、柏木、角筈、百人町の一部を再統合して「西新宿○丁目」という呼称を与えられ、71年に京王プラザホテルが建てられ高層ビルの建築ラッシュが始まった。それが「滅びゆく角筈」という嘆声を生んだわけだ。

ちなみに角筈とは真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉で、当地の名主「渡辺与兵衛」がその名で呼ばれていたのが起源だそうな。

(2001年7月12日)




角筈熊野十二社
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廣重描くところの「名所江戸百景」から「角筈熊野十二社」。
半端に昔を懐かしむなら、いっそ江戸時代の角筈に思いを馳せる一枚の浮世絵。

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