言わせてもらえば |
アウトドアは、歩いていきなさい。 |
「人は自分の好きなもので滅びる」というのは私の持論で、酒飲みが酒で身体を壊したり好色漢が女性のために身を持ち崩すのもその実例といえる。まあそういうのはまだ人によって好き嫌いのある部類だが、人類がおしなべて好きなものは「快適」と「清潔」で、それは私も好きだ。好きなものはどうしても度を越してしまう。とはいえどうも最近人間全体で度を越してしまったようだなと思う。 例えばバドゥイのようにひとつの川で洗面も洗濯も排泄もするような状態ならば、病気にもなるだろうからそこにはまだまだ清潔になる必要性もあるだろうが、この国でこれ以上の快適と清潔を求めることは過度の飲酒と似たようなものではないか。突然バドゥイという知らない言葉を出して不親切とお思いの方もあるだろうけれど、それについては有給放浪をお読みいただければありがたい。一言でいうと「文明を拒否するジャワの少数民族」である。 人は快適と清潔が好きだから、都会はますますその度合いを深める。快適にもいろいろあるがまず室温を一定に保つことから言えばそれは温度の偏在であり、清潔とは細菌を殺すことである。自然は本来快適なものでも清潔なものでもないので、人は都会にきわめて不自然な環境を作りそこで暮らすことを好む生物と言えよう。 物は分散しているのが自然な姿である。人間の好む環境はその自然な姿に反する、いわば砂場の砂を高く積み上げたような状態だ。温度は本来どこも同じになっていくはずで、外界との温度差を保とうとすれば温度が偏った状態を無理に作り出さなければならない。清潔についてもそうで、どこにでもいる細菌を自分のまわりだけ抹殺しなければならない。快適と清潔とはきわめて偏った、不自然な状態のことである。 私もそうだが、快適と清潔は心地よいものだ。いまさらやめることはできない。ここに無理がある。冒頭の言い方で言えば、私は「人類は快適と清潔を好むことによって滅びる」と考えている。しかしながら私の世代で滅びることはあるまい。それは「私もいつか死ぬだろう、しかしそれは明日ではない」という感覚に似ている。人類が100年以内に滅びる可能性は私が明日死ぬ確率よりもはるかに低いと思う。 もし少しでも長く生き延びたければ、好きなものをひかえることが要諦だろう。 最近アウトドアに出かける人を見ると、死に急いでいるように見える。河原にキャンプするとかそういうことではない。自然の中に快適と清潔を撒き散らす行動をさかんに行なっているからだ。都会とは人間が自分たちの好みに合わせて作り上げたきわめて不自然な環境である。都会を自然に持ち込むのは反自然なことだ。 自然を楽しむとは都会を離れて自然の環境に包まれることを言うのだろう。なぜ都会の環境をそのまま自然に持ち込もうとするのか。その行動は不合理であるが、疑問を持たない。持ったとしてもその誘惑に抵抗できない。これがつまり「快適と清潔が好き」だということで人類の業には違いない。 しかしその行為は自然を愛することではなく自然を破壊していることに他ならない。そういう行動を取るのなら「自分は自然破壊者である」という意識を持つべきだと思う。アウトドアとは、都会の偏った状態/人間のわがままを自然に持ち込む行為だという反省が必要だろう。 家から歩いていけとは言わないが、佳境に入ったら自分の足で歩くべきだ。自分の力で運べる以上の荷物は、そこでは不自然である。 (1999年に書いたものに、2002年06月20日加筆) |
c 1999 Keiichiro Fujiura |
表紙 |
黄年の主張 |
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